臼井・王子台商店会MAP

臼井歴史散歩

星神社

平安時代、千葉介常兼三男、六郎常康は臼井の地に封ぜられ臼井氏を名乗り、開発領主として未開の荒野や沼沢の墾田治水を行い、臼井は下総臼井荘として繁栄した。鎌倉時代、執権北条時頼に敗れ前期臼井氏は没落するが、室町時代には臼井興胤が臼井を安堵され、 暦応元年(1338)後期臼井氏として再起する。戦国時代に入ると、関東は戦乱が絶えず、臼井でも数々の戦いがあり、臼井氏は同族原氏に臼井領を乗っ取られ滅亡する。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めでは、後北条氏方の千葉氏一族も滅亡し、臼井城も落城した。 徳川家康関東入国後は、その家臣酒井家次(臼井三万石)の城下町となった。しかし酒井氏の上州高崎転封後は廃城となり、臼井は徳川幕府直轄の天領となったが約100年後佐倉藩に組み入れられ政治の中心は佐倉へと移ってゆく。 その後臼井は宿場町として生まれ変わり、江戸中期以降「成田山詣で」が盛んになると風光明媚な宿場町として賑わってゆく。しかし明治初期に鉄道が敷設され明治30年(1897)総武鉄道が成田まで開通すると宿場町としての役割を失い急速に衰退してゆく。 大正・昭和の戦前戦中を経て戦後の復興、高度成長期を迎え、昭和40年代には臼井地区にも大規模土地区画整理事業が進められ、現在は佐倉の主要都市として、近代的な街並みと、古い歴史と緑と水に恵まれた美しい街として、更なる発展が望まれている。

臼井城址公園

臼井城址公園

14世紀中頃、かつて下総地方を支配した千葉氏の支族である臼井氏が城を構えたところです。当時の城郭の位置からは印旛沼が一望でき、かつてこの地に城があり、主がここから城下を眺めていたことが伺えます。 現在は公園として印旛沼をゆっくりと眺めながら、佐倉の自然と歴史にふれあう憩いの場として利用されています。

謙信一夜城跡

謙信一夜城跡

永禄9年(1566)3月、下総に進出した上杉謙信は北条方の千葉胤富・原胤貞の守る臼井城を包囲しました。上杉勢は激しく城を攻め立て、王子台砦は攻略しましたが、上杉勢にも多数の死傷者が出て城はなかなか落ちませんでした。 この攻囲中に足利義昭より謙信に上洛の要請があり、長陣を恐れた謙信は越後へ引き上げたそうです。今「謙信一夜城跡」と呼ばれているのはこの時攻略された王子台砦のことです。

雷電顕彰碑

雷電顕彰碑

江戸時代の名力士(江戸本場所籍36場所中、通算黒星10、勝率9割以上)雷電為右衛門の153年目の命日に因んで、妙覚寺の境内に昭和53年2月11日、雷電顕彰碑を建立しました。碑は、高さ2m77cm、幅lm43Cm、厚さ25Cm、重さ4.5tの仙台石に「天下第一流力士雷電之碑」の文字を配しています。 裏面に「雷電為右衛門は、ここ臼井のひとを娶リたるえにしにより、この地を愛し此処に眠る没後153年の命日に因みてその偉容を等身大に刻みもって顕彰の碑となす」と由来が記されています。

太田図書の墓

太田図書の墓

臼井城址公園の傍らにある石碑は、臼井城の合戦にて討死した、関東管領扇谷上杉氏の家臣太田道濯の弟、太田図書助資忠の墓と伝えられています。臼井城の合戦は、文明11年(1479)におきた戦いです。上杉方の太田資忠らの軍が、 足利方の千葉孝胤<ちば・のりたね>らが簸もる臼井城を包囲し、周辺の敵対する諸城を攻略しますが、臼井城の防備は堅固であり、なかなか落城できませんでした。 一度兵を引き上げようとした資忠らは、城内から不意打ちをうけましたが、上杉方もこの際に反撃を加え、ついに臼井城を落城させました。しかし、この戦いにおいて、資忠をはじめとする多くの上杉方の武将が戦死しました。

臼井八景 宿場町として栄えた臼井宿

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